昭和五十六年十二月十一日 朝の御理解


御理解 第三十七節
「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」


 二代金光様、四神様のお言葉に
「信心せよ、というとすぐに拝み出しますわい」というお言葉があるそうですね。
 信心せよというたらすぐ拝み出す、まあそこから感じます事は、お道の信心が、只拝むという事だけが信心ではないという事。
 又、今日の御理解で一生が修行じゃ、と仰せられるように信心するならしっかり修行せよと、まあ言われたとしたらね、皆が様々な修行に取組んで、それこそ一生が修行じゃと仰せられますように、一生をあられもない修行に打ち込んで来た人たちが沢山あった事だと思うですよね。そりゃもう水をかぶったり、断食をしたりというのがまあ見易い方で、もっともっと大変な修行を生涯、いわゆる、一生が修行として受け抜かれたんだと。
 四神様が、信心せよというとすぐ拝みだすわい、という事は拝む事が信心じゃないぞと、ね。まあ、教祖様は“表行より心行せよ”と仰せられるから心行なのだけれども、その心行の焦点というものが、修行の焦点というものが一生がかりでさせて頂く修行のその焦点が間違っておりはしないか、ということ。
 これは不思議にね、それこそ断食をしたり、水をかぶったりして一生懸命神様をいわゆる拝み出しますわい、であって、拝みますとね、そこに一心が立つからおかげになるんです。又、人が助かるんです、ね。
 けれども、そういう修行が、一生続いたところでですね、いわゆる、教祖様が、天地の親神様から受けられた信心には悖る、という事です、ね。
 まあ端的に申しますと、お道の信心は天地書附にありといわれるのですから、ね。いうなら、おかげは和賀心にありと仰せられるのですから、その和賀心になる為の修行でなからなきゃならんという事。
 まあ、その為に様々な工夫もいりましょうけれども、その和賀心が焦点、只、水をかぶった、断食をしたというね、只そこに自他共に助かる道が確かに開けてはくるんですけども、助かってきたからこそ金光教の信心も百年も続いたわけなんです、ね。信心するなら修行はつきものぞ、しっかり修行せよというとすぐ水をかぶりだしますわい、ということになるのじゃないでしょうか。すぐ断食やら、あられもない修行に取組むという事になるじゃないでしょうか、ね。
 祈念詞の言葉の中にも、久しき神の願いというのがありますね。もうそれこそ、久しき神様の願いがね。教祖生神金光大神によって伝えられる事になった、もうまさに御理解三節等はそれなんですよね。天地金乃神と申すことは、というあの御理解なんですね。
 又は、いわゆるもうおかげはね、水をかぶったり、断食をしたりという事ではないんだぞ、天地金乃神さまが教祖金光大神にお伝えになったところのおかげとはね。いうならば、心行も表行もほんならしてはならないという事でもないけれども、焦点はどこまでもそこ和賀心でなからなければならんということ、ね。
 かって、無宗教者、宗教家がです、の教えの中にこういう教えがあったでしょうか。
 人間がおかげを受けて、いわば幸福という幸せになっていくというそのおかげはね、和賀心にあるのだ。しかも、その和賀心は、まああるやらないやらわからん、まああると仮定いたしましても罪をもっておるとか、因縁があるといたしましても、その罪も因縁も
和賀心の前にはね、それこそね、真実その和賀心というものの光に照らされたら、霜に煮え湯をかけるがごとしといわれる、ね。
 だから、その和賀心をいよいよ目指すという事に修行がかけられなければならんという事であって、なら霜に煮え湯をかけるような和賀心というのはなかなか出来ないにいたしましても、目指す所はやはりそこでなからなきゃならんという事。
 一生が修行じゃとね、もうそれこそ千年も万年も前から神様の願いであった氏子信心しておかげ受けてくれよ、とおっしゃるその信心とは、こういう信心をいうのじゃと教祖金光大神に教えてくれた、ね。信心によって誰しもがその気になれば、助かる事が出来、おかげを頂く事が出来、お徳を受ける事が出来る手立てなんですね。 だから、勿論修行は限りないもの、それこそ学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい、という事なのですけれども、ならね、教祖金光大神が天地金乃神より受けられた教え又は願い、天地金乃神さま、金光大神を通して氏子、私共に願われておる願いというのは、四神様のお言葉ではないですけれども、すぐに拝み出しますわい、又今日のご理解で、何でも修行はつきものぞしっかり修行せないけないよというたら、すぐ水をかぶったり、断食したり、只日参りを一生懸命、朝参りさえすりゃよいという事だけのような事が修行の焦点であったら、それは間違いだと、それなら過去百年の、ならこれはあらゆる宗教もそうですけども金光教だけにしましても過去百年の信心が物語っておるのだ、ね。
 合楽理念が生まれて初めて、天地金乃神さまが長い願い長い願いでおありになった教祖金光大神への御教えが、いよいよ合楽理念によって花開くときが来たというてもよいのじゃないでしょうか、ね。
 合楽で言われる前代未聞の信心、開闢以来、宗教以前の宗教そういう言葉がこう沢山出てまいります、ね。合楽理念が発表されりゃ、もう合楽ではもう即刻表行全廃しました、ね。いわゆる水をかぶったり、断食をしたり、随分激しいそういう表行に取り組んで、私共も取り組みましたし、男子修行生もそういう修行に取組んで来ました。けれども、そういう教えを触れたもうその時から、合楽で表行は全廃しました。そして、表行をするようだったら、もう合楽での修行するという事はでけん、言うなら破門だとさえきびしく言うように表行全廃であります。天地の親神様の願いというのはね、自分の身を苦しめたり、あられもない行をしておかげを受けてくれよとは言うてはいないんだと、ね。
 誰しもがもっておるその心の状態を我ながら、それこそ生神への精進による和賀心を焦点としての修行。その為に言うならば、ある修行が合楽理念だと思うです。皆さんが、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にする、ね。黙って治める、もう絶対和賀心が育ってくるです、この修行なら。はあ、言わんでよかった、ね。
 成程、自然の働きそのものが神様の働きと言われれるが、確かにそうだと。いよいよ有難い心が心に育ってくるね。その有難い心そのものがいうならね、先だってからも申します“和すれば乱れる事なし”という事。和、平和の和、和賀心の和ですよ。そのどういう事にでも和していく限りです。心は乱れることはない。その心に頂くおかげをそれこそ、神様は天地金乃神様は金光大神に伝えられたんです。
 今度の御本部参拝で、私はもう本当にこれはね、私の信心が素晴らしいという事ではなくて、私が受ける教祖金光大神の教えを深く広くしていける所の合楽理念そのものが素晴らしいのです。だから、私じゃないです。勿論神様が私に教えて下さった。そこで、教えて下さった事を私が実験実証さして頂いた。いうならば、私がここで噛んで含めるようにという事は、私が一辺食べてみた、おいしかった。しかも、それが血にも肉にもなるんだという所を皆さんにお伝えしておるわけなんです。その教えは、もうそれこそ前代未聞であります。
 昨日、御本部から帰り道、若先生が申しておりましたが、親先生が言われる前代未聞とか開闢以来とか宗教以前の宗教とか言ったような事をです、今の教団のほとんどの人がですね金光教よりももっと素晴らしい宗教があると、そんなに最高のものじゃないというような風にまあ、金光教金光教と言うておるけれども、まあ高を括ったような所がありはしないだろうか。とても仏教の教典にはかなわんね、キリストが説いとるあのバイブルにはかなわん。まあかなわん、そんなことないやろうけれども。なら、本当に言うならば、前代未聞の教であるという事は、それを信ずる事は出来ない。まあ合楽の皆さんの一部の方だけ位じゃないでしょうか。
 だから、皆さんのここに御縁を頂かれるすべての人がです、合楽理念の素晴らしい事、かっての宗教者どんな大宗教者でも、いうなら私、昨日若先生と話してきた事なんですけども、もう釈迦やらキリストやらが最高、絶対のもののような思い込みがね、間違いなんだ、第一、ね。それでは実際に助かるという事の出来ない。
 昨日、若先生から親鸞の生涯という大変なまあ宗教家であったには違いないですけれどもです、亡くなられる九十何才でなくなられるまで、それこそ、血みどろの血みどろというか、それこそ人間の欲望のまあいうなら人間らしい生き方をして、そして人間のらしい生き方のなかにいつも悩み苦しんでおられたということです親鸞という人は。その話を聞かせてもらって、ほんにその時分にもし合楽理念があったらね、あの大宗教家である親鸞が本当に助かって死んだだろうね、って言うた事でした。もうあそこまで極めていったらもうあと一押しだったんですよ、合楽理念というのは、ね。
 ですから、いよいよなら先ずは合楽理念がどのようなものか、どのような内容のものか、それは天地金乃神様が長年久しく願いに願い続けられたそれが金光大神の御教えによって発表された。
 ところが、その御教えがあまりにも深く広いですから、それをなら過去百年の金光教は分からなかった。今日でも分からない者が殆どである。それをなら合楽では、合楽理念に基づいてこの御教えこそ、前代未聞の御教えである、開闢以来である、宗教以前の宗教だということになってきたわけなんですよ。だから言うだけではない、ね。
 そういうなら教えというものが今、日々こうやって説かれておるのですけれども、私は今度あの奥城に座った途端に頂いたのが、それも丁度お芝居なんかで声がかかるでしょう成駒屋とか中村屋とかいうそのよい役者がでた、あれはかんぱつを入れずというよりも、素晴らしいタイミングでもう思わず知らずあれはおらんでいるのですよ。だから、劇そのものにもお芝居にもひとつも邪魔する所ではなくて、芝居がずうっと生きてくるでしょうが。あの掛け声はね。他の例えばまあ、外国あたりにも芝居があるでしょうけどもそんなものないです。まあ言うなら日本の伝統といわれる歌舞伎だけの世界といってもいいでしょうね。いうならば観衆とその役者との間にね、その掛け声ひとつでぱーっとこうつながってしまうわけ。あげなやかましい声を妙な声を張り上げるなら、お芝居の邪魔になるだろうということは絶対ないでしょうが、そんな感じなんですよ。
私があすこへもう奥城に入った途端に、“世界一”と声が掛かってきたんですよ。もう私、自分の耳を疑がおうごたった、はい。
 どういうことが世界一という事だったか。それは大坪総一郎という人は、世界一立派な人とか偉い人というそういう意味ではないです。金光教の御教えを今大坪総一郎が解いている教えというものはもう前代未聞であり、開闢以来でありね、宗教以前の宗教いわゆる釈迦もキリストも先ほど申しましたように、例えばもし親鸞が、その当時もし合楽理念を知ったなら聞いたならばね、素晴らしい助かりを得た事であろうというような内容を持っておる、又実際そういう実験すれば実証が表れてくる内容を持っておるのが合楽理念なんです、ね。
 だから、どうしてもその合楽理念のマスタ-、そしてそれを実証していくという事に生涯掛けることにならなければならんのです、ね。それは学者が年を取っても本を読むようなものであろうぞい。 様々な修行をなら一生涯貫いて来られたという人は沢山ありますけれども焦点違いなんです、ね。限りない、いうなら和賀心の進展という事の為の修行じゃないからな。その修行の手立てが分からなかったわけです。教祖は、はっきりと天地日月の心になる事肝要だと説いてあるのだけれども、そのなら天の心とは地の心とは、なら和賀心を分析するとどういう事になるのか。
 昨日若先生が言いよりました。親先生あなたが言われるように、どうしても和賀心学を作らなきゃいけませんなあ、と。ね、それは私が亡くなったあとに、神様は今、合楽で解かれておるのはもう前にもなかった、今後とてもおそらく私が解いておるような教えはもうないでしょう。後にも先にもない程し、そこの所が世界一だという事じゃないでしょうか。 だから、なら合楽理念に基づいて親鸞の教えた事を、あれは何ち言うか何代目か位な時のお偉いお坊さんが、完璧に近いまあ仏教を闡明にされたという事で御座居ますけれどもね、いつの時代にか、この合楽理念に基づいてですね、いうならば合楽学というか和賀心学というものがね、出るようになるだろうねというて話してきた。
 私に学力がもちっとあったなら、もちっと素晴らしい表現力を持って皆さんに聞いてもらえるだろうけれども、それこそ教祖生神金光大神も同じ思いをなさったのじゃなかろうか。神様から頂かれる教えの素晴らしさにもうびっくりなさっておられて教祖自身が、かっての宗教が言うてないような、いうならば、おかげというものは和賀心にあるとかね、天地日月の心等というような御教えを受けられた時にはそれこそびっくり仰天して、これをいかにして皆に伝えようかと随分思われたじゃろうけども、そんなの説明しようがなかったというのが教祖様じゃないだろうか。そして、教祖様が亡くなられて百年、ようやく神の願い久しき神の願いがここに合楽によって成就しょうとしておるという事なんですね。だから、そこに焦点を置いてのです、ね。
 昨日の昨夜の御理解の中にも申しましたように、昨日福岡から自動車が出迎えにきておりましたから、帰りがけあの筑後川の堤防、帰りながら本当に私達はいつもこうやって見とるけんが何でもないように思うとるけども、あの昨日はそれこそ満月のようなお月さまが、それこそ昼を欺くような煌々として耳納山にかかっての上に出ておるお月様を拝みながら思うたんですね。
 耳納山が一目瞭然に月の光ずーっと見えるんです。どこここに旅行をしてもどこに行っても、こんな素晴らしい山は見た事がないという程しの耳納山を私共はいつも眺めておる。あの耳納連山ですね、いわゆるそしてその筑後川の堤防を走ってきながらです、こんなそれこそ筑紫次郎と言われる名にふさわしい雄大な流れというでしょうかね。南に耳納山をバックに、前に筑後川の清き流れを前にして中にひときわはっきりと光り輝く道がある、ね。
 ですから、この光り輝く道があるという事はここから合楽理念が誕生するんだと、そこから光を放つようになるんだと、光り輝くようなだからその光り輝くほどしのね、実験と実証をおかげを皆さんが頂かなければ出来ん事になるんです。どうぞ皆さんがね、折角こうやって修行をなさるんですから修行の焦点がどこまでもね、和賀心であり天地日月の心である為にはいよいよもって、天地日月の心をいうなら天地の親神様のお心を分からして貰いそのお心にそい奉る手立てを合楽理念に求め、しかもそれはですね、合楽理念を頂くようになったけん、もう一辺にそのおかげを頂くという事ではなくて一生がかりでね、この事の成就にお互いひとつ傾倒さしてもらわんならんというふうに思います。
 本当に教団人だけでもよいからね、金光教の御信心か世界一だとね。本当に前代未聞だと、開闢以来の御教えだとね分からして頂いたら、もちっと違った金光教がね発展していく事ではなかろうかと思うね。
 それには先ずなら例えば、そういう素晴らしい事であってもね、まあむしろ金光教の異端者のように言われたり思われたりしておるという事実ね、本部でもそうです。合楽理念の為なら、いうならば新聞記事でもね、南米に送らなならんというあの記事の事でもね、まるっきり合楽理念を認めたような事になるから本部から記事を送らんと言ってきたね。いわゆる、まあだその教祖金光大神の信心が前代未聞とか言うなら開闢以来とかといったような、芯にそれをそういうふうに信じ切れてない証拠なんです。
 それには、合楽教会のいわゆる教会長である私がこうやって一生懸命言うだけではなくて、合楽に御縁を受けた方達が確かにそうだという実証をいよいよして下さらなければならないし、又修行をかけるならば一生が修行じゃと言われれば確かにそうでありますけれども、焦点を踏み間違えての生涯であっては勿体ない。これなら絶対間違いのないという所に焦点を置いての一生が修行だというならば、いよいよ和賀心、又それに伴うおかげもお徳も受けられあの世までも持っていけるという事にもなるでしょう。
 私は、今日皆さんが御祈念をなさっておられる時に、久しき願いという所をね、非常にこう何か感じたんです。皆さんがあげられね、それこそ天地の親神様の久しき願いが教祖金光大神によって発表されたけれども、あまりにも至難であった。難しかった。まあ言うならば、あまりにも平凡な表現であってなかなか食い…まあその程度で見くびってしまってるような所があるんですよ、ね。それを合楽では御教えの一つ一つを言うならば、教祖金光大神の御教えというものが嘘ではないという事を実証していきつつあるのが今日の合楽です。
 教祖様は嘘はおっしゃってない。天地の親神様から嘘の教えを受けておらない。しかも、人間が人間らしゅう生きる手立てというような手立てというのは、過去数千年の宗教の歴史をひもといてももう絶対になかったという程しの、なるほど神様が世界一と言うて下さるような内容を思います、ね。
 一生が修行には只今も申しますようにいよいよ絶対なもの、いうなら神の願いに応えての修行でなからねばならんという事でございます。どうぞ。